ものとの対話
長谷寺巡りで、奇しくも、長谷川富三郎さんと同年、1910(明治43)年生まれの白洲正子さんの言葉にたどり着きました。
久保田さんが引用してくれた、白州さんの『十一面観音巡礼』は和辻哲郎さんという哲学者の書いた『古寺巡礼』を引き継ぐような仏像巡り(しかも十一面観音オンリー!)の旅路を書かれています。和辻さんは自然風土と人の気質の相関関係を考えていた哲学者です。
アートの人間が『古寺巡礼』といえば、、、超有名写真家の土門拳さんの写真集も思い出します。 土門さんは1909(明治42)年生まれで、長谷川さん白州さんの一つ上です。
みなさん出身地は違いますが、明治時代の終わりの生まれなんですね。
明治時代は、鎖国が解かれ、西洋文化の考え方や西洋美術の技法が積極的に入っていたり、国家神道の導入で廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動がおこっていたり、宗教と美術の境界線の大大大変動が起こっていました。そういう風な、美的なものに対する価値観が揺れ動く中で生まれ育ち、作家、板画家、写真家として活動をしていた人たち、、、。彼らが作家として活躍する第二次世界大戦後の社会には政治の風が西に東に吹き荒れていましたが、「ものとの対話」とも言えるような制作に取り組んでいたようです。アウトプットの方法は違いますが、どこか似た問題に取り組んでいたのかも?と思ったりしますね。
土門さんが「古寺巡礼」で撮影した三徳山の投入堂、長谷川富三郎さんも板画にしていて、こんなコメントを残しています。
『「日本一の建築物は何かと問われれば、わたしは躊躇なく三仏寺投入堂を真先に挙げる」と写真家の土門拳氏は申しておられます。(中略)投入堂の真韻を表現するまでには至りませんが、なんども板画にさせてもらいました。」(長谷川富三郎『無弟板画集:無弟庵叢書第十一巻』無弟庵, 1972, p7)
土門さんがお寺や仏像を撮影する姿は「撮影の亡者」と言われるほどで、寝食を忘れるほど対象にのめり込んで熱心に撮影したというのは有名なエピソードで、何度も何度も三徳山を板画にされている長谷川さんにも同じ写真的な方法論が伺えるような気がします。
今回長谷川さんを調べる中で、地元の方から倉吉の郷土写真家、高木啓太郎さんという方の存在をお教えいただきました。昔打吹駅のあった駅前通りに写真店を営んでおられたそうですが、彼とは教員退職後は毎日お茶を飲む仲だったそうです。そういった写真家との深い交流も、制作に影響を与えているのでしょうか。
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