君にはあるか、うまやどの記憶
そんな感動の原点を生み出した日本型稲作りの基盤を作った方が、倉吉にいらっしゃったことが倉吉市博物館にて分かりました。明治時代の農家の中井太一郎さんという方です。現在私たちがよく目にする規則正しく植えられた田園風景は、太一郎さんが明治17年に発明した「田植定規」によるものです。大変な苦労があったそうですが、その後、水田中耕除草器「太一車」を発明し、太一車を普及させるため、彼は全国を遊説して廻りながら、新技術を広めました。それまで無作為にただ苗を植えていた田植に代わり、良苗を正条植する習慣が定着したのは、中井の尽力によるもので、明治期の農業改良に多大なる貢献を果たしました。最近機械除草がもう一度見直され高精度乗用除草機も開発されつつあるようですが、原点はやはり太一車にあります。
ところで倉吉の長谷寺には、巨勢金岡が描いたといわれる繋白馬図の白馬が、夜な夜な絵から抜け出し、田畑を暴れまわったという伝説が残っています。この白馬の絵馬の願主は雲州(出雲)中井平三兵衛尉久家で奉納の年は天文18年。そしてこの絵馬には2度の改修が行われた修理銘があり、最初の修繕は安永6年(1777)の松和屋儀兵衛さん、2度目は明治31年(1898)中井益蔵さんによるものだそうです。
ちなみに長谷寺には、この繋白馬図と同じ奉納年月の繋黒馬図という絵馬があります。おそらく白馬と一対で奉納されたものでしょう。この絵馬も明治31年(1898)に修理銘が残っていることから、中井益蔵さんが修理されたのではないでしょうか。(参考:倉吉博物館発行『長谷寺の絵馬群』)
その中で私たちは、この倉吉について彫っている作品や、長谷川富三郎さんの概念的な部分ではなく、もっと心や肉体を媒介したであろう作品を中心に分析しながら対話していました。
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